『treize』は当初きっちりと話を固めてしまうのではなく、想像し創造する余地を持たせる作品にしようとしていた為に、treizeの世界観やキャラクターの人物像と関係性を伝えるように書いたお話です。
弾けた柘榴、
なんて表現、綺麗過ぎて使えやしない。
悪臭
陽の落ちた路地裏。鼠の這い擦った泥に混じる血液と腐りかけの汚物。人間の腹を割れば、等しくこんな物が出て来るのだ。
だらりと下げた腕、その下、拭い切れない濃度のある液体が滴るダガーの先を見つめ、更に下へと視線をやれば、出来損ないを咎められた操り人形の様に転がる、僅か数分前まではヒトだった物が転がっていた。
ぼやけた視界が焦点を結ぶ先は、寸分の狂いなく相手の動きを封じる点を射抜いた銀色に輝く矢。この場所を射抜かれれば、激痛に悶え苦しむが死に至ることはない、残酷な手口だ。故に、自分は余り好まない。今更良心だとかを語る気はない、むしろ、ただ面倒なだけだ。ターゲットになれば速やかに抹殺する、それが自分に与えられた存在意義。
ならば
何故
何故、自分の指は、致命傷を目的としない矢を放ったのか。
こんな、下らない、
下らない、モノ、に…
「…ああ」
そうだ…
この、下らない、
腕がっ
グチャリ
急激に視界が晴れて行く。
認識よりも先に動いた足が踏み付けている先に残る赤い跡は、その手が握っていた剣を彼の人が叩き落した時の物。
そうだ、この、下らない腕が、彼を、傷付けようとした
未だ硬直も始まらない、確実に魂の抜け落ちている奇妙に柔らかい肉、それに包まれた骨は、本来与えられた節を思い出す事の出来ない無能な塊となり、高価な靴を振り下ろされ、砕かれるに任せ、珍妙な動きを繰り返した。
「…ちょっと、ちょっと。そこら辺にしといてよね!」
一瞬、空気が歪む。瞬き程の違和感の後には、目の前に人の形をした存在が在った。
「あ~あ~、派手にやってくれちゃって…片付けるの大変じゃない、もお…!」
人間の惨死体、それを眼前にして微塵も怯まない所か、まるで小間使い達がこぼす日常的な愚痴程の軽い口調で呟く“彼”の立つ場所には、確かにどす黒い血溜りが有るというのに、女物の如くしなやかなラインを描く足先は決して汚れる事が無い。
不可思議な光景
それは、理性ではなく、本能で否応なく知る"事実"。
この世のものではない"モノ"が降り立っている、と言う…
「何惚けているのよ?アンタらしくもない。」
…らしく、ない?
らしくない、行動とは、どんなものだ?
俺らしい、とは、どんなものだ?
俺は、ナンダ?
「全く、今回は高いからね!!」
ぶつくさと文句を言いつつ、腰に手を当てる一連の動きは、広場にテントを張る見世物小屋の何処かコミカルな踊り子のそれを思い起こさせる。
面白いな
かなり場違いなことを思いつつ、眺めた先では、不可思議な色を湛えた双眸が細められ、高く通った鼻梁、その下の薄く整った唇から、静かで長い息吹が吐き出される、と、直後。
視界を埋め尽くす、光の洪水、その中に、
穿たれた異空間への孔の如き、闇色の翼が…
酷く眩しいのに、瞬きすら許されない光景に、凍て付いた人間としての感覚が揺り動かされて戻って来る。即ち、それは、畏怖。
並の人間ならば、目の前にしただけで魂すら奪われかねない姿は、しかし奇妙に歪んでいた。
バサリ…
背から広げられた翼は対を成すことは無く、均衡を崩した印象を与える片側だけのそれは、ゆうに身の丈の倍はあろうかと言う大きさで、僅かな動きによる圧力は、確かに身体の核に迫るかの如き風を起している、と感じるのに、しかし、周囲の物質には何の動きも齎さなかった。
バサッ
一つ
羽ばたき。
迫って来る闇を避ける事も叶わず、ただ立ち尽くして居れば、急速に引いて行く光の後に残ったのは、日常の街並と、ひょろ長い身体を持つ男だけだった。
「は~い。お掃除終わり、と。」
コキコキと首を鳴らして「疲れた~。」などと口にする男は、変った風貌ながらも造作は整っていて、確かに目立つだろうが唯の人間にしか見えず、先程の光景が、幻想だとか、あるいは奇跡だとか呼ばれる絵空事だったと思ってしまいそうな程に、夜の街に似合いの空気を備えていた。
「ちょっとちょっとぉ、止めてよその顔!」
感覚は確かに研ぎ澄まされている。常にそうである事は、自分が自分である為の必須条件で。だのに、何故か手に足に、心に残る、不確かで気味の悪い感覚に意識を取られていると、カツカツと小気味の良いリズムで鼓膜を打つ音と共に、彫りが深い顔が近付いて来た。嫌と言う程に見慣れた顔。
「顔?」
首が、右側に傾いた。これは、自分の動作だ。愚鈍な反応だと、一瞬遅れて自覚した台詞を吐くと、後拳一つ近付けば、鼻と鼻が付いてしまう位の距離で止まった男の顔が、益々不快の色を増した。と、思った次の瞬間には、眉間の一点に軽い圧力を受けた。
「直にでも、食い殺しちゃいたいって顔。」
視界の中心でぼやける象牙色の輪郭から、目の前の男に人差し指を突き付けられているのだな、等と鈍く思う傍らで、対照的に鋭く刺さったその言葉は、意図せぬ震えを背筋に走らせた。
誰を、
等とは、聞くことは無い。聞くことは出来ない。
その答えは常に自分の中心に在り、けれど決して解き明かしてはならない物なのだ。
「…ふん。」
もやもやと濁った心の中心から目を逸らし、一つ深呼吸をすれば、僅かな違和感のみを残して、男の指先が離れて行ったが、相変わらず神妙な色を浮かべたその顔は、妙に心をざわつかせた。
嫌な、感じ…取り払わねば…
「…近い。顔。」
ビッ
取った動作は、余りにも幼稚で単純だった。しかし、確実に、その場に圧し掛かっていた何かを霧散させた。突然立場を逆にされた男の両の瞳は、眉間に突き付けられた指先に吸い寄せられて、奇妙な表情を作り出した。それに思わず唇が綻べば、その気配を察したのか、唐突に軽業師のような身のこなしで後退したかと思った直後、今度はわざとらしい程に大きな身振りで、狙いを定めるかの様に指を指して来た。
「アンタねぇ!仮にも聖職者なんだから少しは敬ったらどうなのよっ!?アタシは天使よ、て、ん、し!!」
静止しているにも拘らず、バネの玩具の動きを連想させる姿とその台詞は、余りにもちぐはぐで、対峙する自分の闇色の風体も、その珍妙な光景を、一層いかがわしい物にしていることだろう。
人殺しの聖職者と、死体を始末する天使。
それも、日常的に。
「堕ちた天使に祈る言葉は、な、い。」
バッ
と、身に纏っていた漆黒のマントを脱ぎ捨て、勢いをつけて投げた先には、神の使いと人々に崇められる存在が。
「ぎゃっ!」
「取り敢えず、さっきのお礼。仕事の報酬は後でちゃんと渡すから。」
この国でも最高峰の法力を込めて作り上げられたそれの価値は、多少の心得がある者ならば、触れるだけでも萎縮してしまう程の物。闇夜に溶ける為、色も、音ですらも消え去る事の出来るそれが、人ならぬ彼に必要だかは分からないが。
願い、祈る。慈しみ、愛され、許される。
そんな関係を望む日が、何時かこの自分にも来るのだろうか。そんな関係を望むことが、許される、日が…
がさごそと言う派手な音と、くぐもった唸り声を後ろに聞きながら、来た時とは異なり、殊更人間らしい足音を立てて表通りへと向う。
我が最愛の友は、未だあの麗しき女性と一緒の時を過ごしているだろうか。そして、その顔に浮かぶのは…
「…見たいような、見たくないような。」
行く先は決めていない。ただ喉を焦がすあの液体が、今は欲しい。
「ん~、ま、いっか。」
鉢合わせしてしまったとしても、その時はその時で…
煩わしい思考を止めれば、これこそ自分らしい、と言う姿なのだろう。クツクツと鳴った喉、その笑い声ですら何処か遠く聴こえる感覚さえ、何時も通りの物。
何時もの通りの、自分。
外へ出て始めて、頬を撫でて行く風を感じながら上を見上げれば、彼方から見下ろして来る星々が唯静かに瞬いていた。
「…何の、礼だってのよ、コレ。」
忌々しいと感じる、この憤りは、誰に対しての、何に対しての物なのだろう。
「だから、さっきの、だろ。」
唐突に、何も無かった筈の空間に集積されて行く、何者かの気配と、男物の声。
付かず離れずと言った距離に現れた、慣れ親しんだ温もりに、トンと身を預ければ、それを黙って許してくれる相手に、波立った心が凪いで行くのを感じた。
「仕事の報酬にしたって高過ぎるじゃない。」
「仕事の報酬は別だろ。」
「アタシのこと堕天使って言ったわ。」
「間違ってもいないだろ。」
「生意気なのよ。」
「今に始まったことじゃない。」
「…本当に、堕ちてしまえれば、楽なのにな。」
吐き出した言葉は、誰に対しての、何に対しての物なのだろう。
自分よりも幾分背の高い男の身体に腕を回せば、確かに伝わって来る鼓動、その温もり。
「ケン…」
思いがけず、応える様に背に回された腕は、そのまま赤子をあやすような動きになり、それは、自分とは対象的に、普段から余り自分の感情を表に出さないこの男の、精一杯の優しさなのだろう。
「抱き締める腕があるなら抱き締めれば良い。守る腕があるなら守れば良い。」
そして、
「奪う腕があるなら、奪ってしまっても良いんだ。」
例え、対峙する相手が、運命だろうと、神だろうと。
故意に大きくした声が、それでも震えていたのは、何故だろうか。
「不器用だな…アイツも、お前も。」
耳元で甘く弾ける囁きは、この世で唯一人、自分を跪かせる事の出来る者の物。
「…冷えて来たな。」
静かに囁かれた言葉とは裏腹に、その身体には微塵の震えも強張りもない。伝わって来る自分の為の体温は、布越しでも充分に温かかった。
だから、これは、今の自分に次の動作を促してくれる為のもの。
「あら、お誂え向きにマントを手に入れたのよ。それも飛び切り上等なヤツ。」
名残惜しさを感じつつも、回した両腕を解けば、それに合わせて離れて行った相手の身体に、より一層の愛おしさが込み上げて来る。
「どう?一緒に包まって酒場にでも繰り出す?」
何時の間にか下に落ちていた闇色のマントを拾い上げ、さっと埃を払えば、その艶、その流れに、改めて価値の高さが見て取れた。けれど、しっとりと掌に馴染むそれが伝えて来るのは、哀しい程に無機質な温度でしかない。
「冗談は顔だけにしろ。」
「失礼ね!分かったわよ。」
軽口の応酬。自分に与えられた日常は、こんなにも甘く温かい。
未だ、許されていると言うのか。
これすらも、見放されていると言うのか。
「じゃあ、一緒に、帰ろう。」
殆ど崩される事の無い、凍り付いた様な表情は、精悍な顔を彫刻と錯覚させそうだが、そっと手を添えた頬は、確かに息衝く者の感触を、熱を、伝えて来て、それすらも与え、そして奪う自分のおぞましさに思わず身を震わせる。その頬に伝わる振動の意味は、誤魔化し様もなく罪深いものだったのに。
「………」
無言の内に身を寄せて、漆黒のマントに包まれてくれる。
罪を犯した。罪を犯させてしまった、何よりも掛け替えの無い存在は、それでも唯自分に寄り添い、許してくれる。
「…一緒に…帰ろう…」
今宵は、闇に、溶けて…
猥雑な夜の街は、決して人の心を癒しはしない。けれど、人は歓楽の光の海を泳ぐ。一時の夢に騙される為に…
結局の所、馴染みの店に入れば、少し手狭に感じるフロアに置かれた三つのテーブル席の内、埋まっているのは一つだけで、その奥にあるカウンターの一番端、ランプの灯りが届く際の所に、けれど、自分の目には何よりも鮮明に映る人の姿があった。
「…あれ、一人?」
「ああ。」
至極自然な動作で身体を少しだけ横にずらしたのは、隣に納まる自分の存在を許している証。何故だろう、常ならばそんな事は気にも止めないのに。今夜はその些細な仕草が妙に明瞭に網膜に映り、それをスローモーションで反復して描き出してみる自分は滑稽だと思うのだが、それすらもくすぐったい様な、歌い出したい様な気持ちを呼び起こした。
「ふぅん。」
カタリ
足の長い椅子に腰掛け、カウンターの上、並んだ男の手の中で揺れる琥珀色の液体を眺めていると、間もなく、それよりも少し色味の濃いものが半分程入った丈の短いグラスが目の前に置かれた。
カラン
耳に心地良い音を聞いて、視線だけで店の主人に軽く礼を言う。小さく「いらっしゃい」とタイミングのずれた台詞を言って、直にまた手元のグラスを磨き始めた初老の主人は、愛想こそ無かったが、長く酒場を守っているに相応しい、口の堅い男だった。何より、この店は中々良い酒を出す。その為、目立って盛況ではないが、客足が途絶えることはなかった。
暫し、手の中でグラスとその中で踊る氷の塊を弄んでから、ゆっくりと一口目を運ぶ。
「………」
ふ、と。
鼻を掠めた慣れない匂いに、無意識の内に開いた片手が動いた。指先にしっとりと馴染む漆黒の髪。身体を傾けて顔を寄せても、何の動揺も伝えて来ないのが、また何故か面映い。吸い込んだ空気に混じるのは、葉巻の薫りだろうか。この辺りでは嗅ぎ慣れぬ物だったが、何時だったか訪れた港町で、褐色の肌を持つ人々が、小船を係留しながら燻らせていた物に似ている気がした。
カラン
されるが侭にしながら、大分薄まってしまった酒を飲み干し、小さくグラスを上げて見せ、それに応えて直に再び満たされた琥珀色の液体を目を細めて眺める相手は、この類を嗜む事は無い筈だ。そして、あの女性も…
「ソーンなら宵の口で帰ったよ。その後イスが来ていたんだ。」
元々尋ねるつもりも無かったが、何も言わずとも与えられた答えに、即座に納得が行った。各地を渡り歩いているあの女ならば、外来の嗜好品を手にしていてもおかしくはない。何であろうと、自分が良いと思ったものは躊躇い無く取り入れる。常に真っ直ぐに背を伸ばした女を好ましく思う気持ちは、自分も同じだった。現に、名前を言われただけで誰某と分かった。それは、取り立てて特別なことでは無いと言われる事も多いが、自分にとっては大層珍しい例だった。
「へぇ~。」
世にも稀な日よ、と、其処らの男達ならば口を揃えただろう。類稀なる美女が入れ替わりで訪れたとなれば、噂話の一つも立てたくなるものだろうが、この店の主人に限っては全くその気も無いらしい。手元にあった酒を一気に飲み干し、軽く片目を瞑って見せながら空いたグラスを上げれば、すぐさま新しい液体が、量った様に半分まで注がれた。
「囲いに捕らわれる、か…」
ふと、呟かれた言葉に含まれた響きに、此処へ来て初めて彼の方へと真っ直ぐに視線を向ければ、口の端だけで笑うその顔には、何処か自嘲気味の色が浮かんでいた。
「…越えたい、のか?」
何故か、その時、そんな問いが口を突いて出た。
呟きの意味さえ、深くは考えて居なかったというのに。けれど、それは確かに彼の中に大きな動揺を齎し、同じく自分の心を強く揺らした。
「…ラド。」
吐息の様な声は、小さく震えていて、それは幾重にも重ねられた囲いの中でもがき苦しむ彼の、痛切な悲鳴の様に耳に届いた。
けれど、それでも。
この、男は。
この、誰よりも気高い魂を持つ男は、それ故に与えられた運命の重さから、決して逃げはしないだろう。
「囲いの中には、囲いの中でしか出来ない闘いがある。」
やがて、静かに開かれた形の良い唇から発せられた言葉。
「………、御心のままに。」
でも、
いつの日か…
囲いを、越える。
運命を、打ち破る。
その時が、来たならば。
神でさえも、俺は敵にすることを恐れない。
「君が、望むなら。」
呟いた言葉ごと、濃い酒を煽れば、飲み込んだそれが喉を焼いて行った。
人は誰でも、常に何かの囲いに捕らわれて生きている。
だけど、その囲いの外には、ずっと大きな世界が広がっている。
そして、それを知っている奴は、
いつだってその気になれば、
自分を閉じ込めた囲いの中から飛び出すことが出来るんだ。
それすらも、
運命と言う囲いの内であるとしても。
~fin.~